溢れる物に囲まれて暮らす「消費者」からなんとか脱却したいともがきます

 10月に家族が札幌に移り住むため、荷造りをしました。大型段ボール箱に60箱以上詰めました。 まだあと20箱ぐらいは詰めるでしょうか。詰めても詰めてもって感じで、なんでこんなに物をもっているのだろうと、われながら不思議です。家具は一切無くて、捨てるものやリサイクルに出すものもかなりあって、それでもこの量です。6年ほど前に、立川から秩父に引越しした時も、2トントラック1台がびっしりでした。なるべく物をもたないってことを心がけているにもかかわらず、なんでこんなにあるんだろう。うちは平均的な日本人よりは物をもっていないと思いますので、想像するに、日本中が物で溢れまくっているのではないでしょうか。
 一人暮らしの大学生が部屋に持っている物の合計金額は、70万円ぐらいになるという統計を見たことがあります。確かに、テレビ、パソコン、洗濯機、冷蔵庫、etc、さらには車をもっている学生もいますからね。ほんとうに物に囲まれていますよね。
 アメリカではストーレッジ(つまり貸し倉庫)が一般的に利用されていて、街でよく見かけます。物が家に入りきらないので、倉庫を借りて保管してもらっているのです。買う時にお金を払って、買った後もさらにそれを保管するためにお金を払っているなんて、まったくナンセンスに思えます。物をもつことや消費することに喜びを感じる生活スタイルは、21世紀のものではなく、前時代のものだと思います。
なんでもやってみなくちゃわからないという、アメリカ人のもつチャレンジ精神はとっても素晴らしく、心から敬意を払います。しかし、それを除くとアメリカ人の生き方や考え方はとっても嫌いです。アメリカで物が大量に浪費されている状況を目の当たりにすると、日本にいて、環境にやさしく生きようなんていって、ちまちま節約したりリサイクルしているのが馬鹿らしくなります。こっちは、こんなに心がけているのに、アメリカ人のやってることをみたら、アホらしくてやってらんない、って感じです。
 「消費者」って言葉は、いやな響きがありますね。単に消費するだけの人、企業から提供されたものやサービスを単に使わせられているって感じがします。受身的で頭を使っていないって感じで、積極的な姿勢や、創造性が感じられません。「いかに消費者に売れる物・サービスを開発するか」ってなテーマのシンポジウムが、いまだにたくさん開催されています。それに学者までが加担して、講演したり討論に参加しています。企業人たちは声高には言ってませんが、暗黙の前提として「消費は善であり、消費を拡大させることが目的である」と信じて疑っていないでしょう。
 企業の手のひらにまんまんと乗っけられて(本人はそのことに気付きもせず)、次から次へと人為的に作り出される流行に乗せられ、その最先端をいくことがかっこいいことだと思い込まされています。それは、単に企業の策略に、うまくはまってお金を取られて気分よくしてるだけのように感じます。
 マザーテレサの持ち物が、サリー2枚と、サリーを手洗いするためのバケツだけであったという話は、よく知られています。物に執着せず、物をもっていないと、買うお金はもちろん必要ないし、整理したり保管する必要も無く、すっきり生きられるでしょうね。マザーテレサにはとうてい及びませんが、すっきりと生きられるように努力したいと思います。、何でも他の人と同じじゃないと不安に駆られる日本人(つまり菅原)には、かなりの強い意志が必要でしょうけどね。
 ”Simple & Natural”こそが21世紀の主流をなす思考・生活スタイルだと思います。