誰だって必ず間違う、失敗なんて怖くない

 成績評価の際に一人の学生の評価を誤り、本来ならばAのところをD(不合格)と付けてしまったことがあります。本人からの指摘があって調べてみると、こちらの間違いは明らかで、平謝りです。決して間違いのないように慎重にチェックしたつもりですが、人間のすることなので100%完璧ということは不可能です。それまで、約1,500人の成績評価をしてきたので、1,500分の1という低い確率でしたが、ミスは起きました。
 高性能を誇る日本車であっても、低い確率で欠陥車は出ます。銀行のキャッシュディスペンサーでさえ、引出しの時にまれに紙幣の枚数を間違うという話を聞きました。人間のすることに決して完璧はないのですから、当然といえば当然です(といって、私の成績評価ミスを正当化するつもりは毛頭ありません)。

 大切なことは、人間は誤りをおかすものであるという前提に立って、誤りが起こった時にどう対処するかという体制を構築しておくことでしょう。しかしこれまで、完璧主義の日本人は、ミスを許さず、ミスは起きないという前提に立ってきましたから、ミスが起こったときにどう対処してよいか分かりません。そこで、ミスを隠すということにつながるのではないでしょうか。100%ミスが起きないというシステムを構築すること以上に(もちろん、それを目指して努力することは必要ですが)、ミスを前提として、ミスが起きてもそれをリカバーすることができるシステムを構築することが大切です。失敗は誰にでも必ずあることです。

 日本人には完璧主義の性癖があり、100%が当たり前で、100%を前提として社会全体が動いているようです。それが、ミスを隠す体質を生みだします。警察組織によるミスの隠蔽、医療機関でのミスの隠蔽、三菱自動車リコール隠しなど、次から次へと隠そうとしていた誤りがばれて出てきます。同じような事例が、毎年、毎年、明るみに出ます。どうしてこうも過去の失敗から学ばず、同じことを繰り返すのかと不思議なくらいです。

 これまでの日本人の完璧主義は、どうしても減点主義や管理主義につながり、伸び伸びと自由な挑戦をゆるす土壌を形成させませんでした。失敗、大いに結構。どんどんチャレンジして、成功するまで挑戦しつづけるという雰囲気がなければ、創造性なんて伸びはしないのです。最近の日本の教育でも、創造性を伸ばすことの重要性が叫ばれるようになってきているとはいえ、肝心の指導者に創造性がなく、創造性がどういうものかを知っていないこともあるので、創造性を伸ばす教育なんておこがましい話しに思えます。