生や死が遠ざけられている不自然な現代 

 生と死、まったくの対極にある両方を最近の短い期間に体験して、生きることの素晴らしさや命の大切さを、単なる頭の理解を超えて知ったように感じます。これで以前よりはちょっと深く人生について考えられるようになった気がします(青二才の若造をちょっとだけ脱出できたって感じです)。
 今日は父の三回忌法要を行わせていただきました。まったく予期しない突然の他界から瞬く間に二年間が過ぎ去り、私たち家族は多くの方々に救すけてもらい、支えてもらって今日までこれました。深く感謝申し上げます。
 肉親の死を初めて経験して、生きることや命についての考えが、以前とはかなり変わったことをはっきりと認識しました。それまでは身近で死に出会う機会がなかったので、単なる頭での理解にとどまっていたのです。
 信じられないような凶悪な犯罪が最近とっても増え、犯人は果たして人間の心をもっているのだろうかとさえ思います。死に触れたことがないので、死がどういうことか分からず、命の大切さも理解することなく、自分中心でしか物事を考えられないために、簡単に他の命を殺めてしまうような気がします。
 死が私たちの日常生活から遠ざけられ、身近でなくなっているので、命の大切さを学ぶ機会がなくなっているのです。先進国以外の国々では、まだ比較的死が身近にあります。現在の先進国でも、核家族化が進む前までは、死は身近にあったと思います。死んでいく人は、生きることの素晴らしさ、命の大切さを、自らの死をもって、後に続く人たちに教えてくれていったのだと思います。
 今春、有難いことに我が家にベイビーがやってきました。私も息子も助産院での出産に立会い、それを通して、命の不思議や巣晴らしさを改めて思いました(胎盤も美味しく食べさせてもらいました)。感動で涙が出ました。
 出産は病気ではなく人間の自然の営みにもかかわらず、大多数の出産は、本来病気の治療を目的とする病院で行われています。これは、とってもおかしなことのように思います。病気じゃない出産を、病院で扱っているんですから。出産は元々もっと日常の中にあって、身近なものであったはずが、病院へと遠ざけられているのです。
 このように、生や死が、日常生活から隔離されています。すると当然のことですが、生や死に触れる機会がありませんから、生命の尊さや生きることの巣晴らしを理解できずに歳を重ねるんだと思います。少なくとも自分はそうでした。ですから、親しい人を失った悲しみなんて、まったく分かっていなかったんですよね。
 生や死をもっともっと身近に出来ると、人間として成長できるように思います。しかし、今日の日本の社会では、それはとっても難しいことです。勝手に周りの人を殺すわけには行かないし、少子化で出産も減っているし。なかなか自分の身近には出来ないよね。かつてインドに行ったとき、ガンジス川を流れる死体を、なんて野蛮なって思ったけど、それは自然の理にそっているのだなと分かりました。インドに行くと人生観が変わるって多くの人たちが言ってるので(菅原は2回行ったけど、自分の未熟さゆえに十分にインドを吸収できず、変わりませんでした)、この夏、インドへ行こう。