敷かれたレールの上を走るのではなく、自らレールを敷こう

 夏休みこども将棋教室に息子を迎えに行きました。終了予定時間を過ぎても、小学生の子供たちが次々に手をあげて質問しています。かたや大学の教室では、ほとんど質問の手があがることはありません。無表情、無反応、無行動、これが大学の講義を象徴する3大キーワードです。
 日本の子供たちは、教育を受ければ受けるほど、疑問に思い質問する能力を削られていきます。これは明らかに、本来のあるべき姿とは逆ですよね。教育を受けて学べば学ぶほど、分からないことがたくさん出てきて、もっと知りたいという探究心が強くなり、どんどん質問が出るようになるはずです。しかし、現実はまったく逆です。これは一体なぜなのだろうかと、ずーっと心に引っかかってきました。
 先日読んだ本で、その答えが具体化してきました。「自分のやりたい事をみつけて、それに熱中する能力」こそがもっと大切にもかかわらず、子供たちは、日本の教育を受けていく過程で、この能力をそぎ落とされていくというのです。子供が自分でみつけた何かに熱中していると、それは大体が親やまわりの大人にとって価値のない、ちっぽけなもののように思え、それを中断させて、親や大人にとって価値のあるものをやるように仕向けるというのです。
 例えば、昆虫採集に熱中していると、それを中断させて、ドリルをやらせるというようにです。つまり親や大人が敷いたレールに素直に乗って進む子供が良い子とされているのです。そうやって育てておいて、大学に入ってからは自分で考えろ、企業に勤めてからは、自分のアイディアを出し、自ら行動せよと求められます。急に言われたって、出来るわけがないですよね。親も、高校生まではレールを敷いておいて、その上を進めと求めていながら、大学生以降は、もう大人なんだから自分で考えて、自分の好きなようにしなさいと言って、急に180度態度を変えます。これって、ずるいですよね。
 高校生までレールを敷いてきた親は、その後も、子供にレールを敷き続ける責任があると思います。それが出来ないなら、高校生までのうちに、自分でレールを敷ける能力を育成しておいてあげることが必須ですよね。
 敷かれたレールの上をうまく走る能力か、自分でレールを敷く能力か、どちらを大切にするか、それは親の価値観しだい。最近、大学におけるこれからの教育のありかたについて苦悩する日々を送っていましたが、ここに来て、少し方向性がみえてきました。この夏に準備をして、秋から新しい挑戦を始めます。もちろん、自分でレールを敷く能力を育成するために。