良き師はどこにいる

 ブランド品があると、必ず偽ブランド品が出回っています。アジアの国々を旅すると、精巧なコピー品が安価でたくさん売られています。いつの世にも、本物とにせ物はあります。また、物に一流品から三流品まであるように、人にも一流の人から三流の人まであるのは当然でしょう。とはいえ、こちらが一流じゃないのですから、相手が一流かどうかを見抜くなんてことは、とても出来ることではありません。それに、そもそも自分がたいした人間ではないのですから、「類は友を呼ぶ」といわれるように、周りにはそれ相応の人しか集まってこないのは当然でしょう。しかし、それでも一流の人を見つけ出して、自分の良き師としたいと思うのです。
 一流の人がどんな人かを明確にいうことは難しいことですが、一つだけ確実にいえることは、一流の人は謙虚である、ということです。「実る穂ほど頭をたれる稲穂かな」と言われている通りです。ちょっとでも威張っているところがあれば、一流とはいえないでしょう。世間で先生と呼ばれて、頭が高くなって、鼻が伸びている人たちを見かけますが、師とすべき人ではありません。どんな人も、ただの人なのですが、自分を偉いと錯覚してしまっている人はどこにでもいます。そういう人を鏡として、己の姿を正していきましょう。
 私にとても親切にして下さり、この人は本当に一流だなと思った方の一人は、元日本銀行総裁三重野康先生です。日本銀行総裁といえば、われわれ庶民には雲の上の人ですが、私のゼミナールの学生の2年生や3年生をも相手にして、丁寧に応対してくださった姿はさすが一流だなと感心しました。
 二流、三流の人ほど、なんとか自分を大きく見せようとして、えらそうにする訳ですが、一流の人にはその必要がありませんから、実に謙虚で、一見すごさを感じさせません。宮本武蔵にはこんな話があります。まだ修行中で諸国を回っていたときに、あるお寺のお坊さんに「おぬしは強すぎる」といわれたのです。つまり武蔵はまだ修行途中で二流だったので、殺気立っていて、それを相手に感じさせてしまっていたのです。その後、修行を重ねた武蔵は、相手に自分の強さを感じさせない達人のレベルに達して、再びそのお坊さんに会いました。すると今度は「ずいぶん立派になられて」とお坊さんに認められたそうです。一流の人は、一見するとそのすごさを相手に感じさせないのでしょう。
 いつも謙虚で、ちょっと見た限りではただのおじさん、おばさんに見える人の中に、素晴らしい師がいるのかもしれません。「吾以外皆吾師」といわれるように、常に周囲の人から学ぶ姿勢を持ち続けることが大切なのでしょう。