漢字を分解すると物事の本質が見えてくる

 日本語の漢字は実によくできています。漢字を分解すると、その本当の意味がよく分かり、物事の本質が見えてくるのです。それは、私達が日々の生活を送る中で忘れかけていたことを思い出させてくれたり、新しい視点を与えてくれたりします。

 例えば、私たちが日常よく使う「有り難い」。これは分解すると、難が有る、ということ。つまり困難が有るということが、ありがたいということなのです。困難こそが、自らを成長させる糧となり、新しい飛躍につながるからです。良いことがあって「ありがたい」と感謝するのは当たり前。困難に出会った時にこそ、この困難があればこそ成長できると、困難に感謝しそれを乗り越えていくという姿勢が大切ではないでしょうか。そして自ら率先して大変なこと、人の嫌がることに取り組んでいくと、必ず成長につながるでしょう。右をとるか左をとるか、選択に迷った時は、大変なほうを選択する。自ら困難を選び、困難に感謝し、それを超えていくところに、本当の「有り難い」が分かってくるように思います。
 人間は本質的に、少しでも楽をして良い結果を得たいという思いが、だれにでもあると思います。しかし、すでに先人の英知は、「若い時の苦労は買ってでもせよ」と教えてくれています。苦労、困難こそが有難いのです。

 次に「学生」を取り上げてみましょう。しばしば「学生」と「生徒」が区別なく混同して使われています。大学生は「学生」であって、「生徒」ではないのです。しかし、大学生のことを指して「生徒」と呼ぶ大人は意外に多く、当の大学生の中にもかなりいます。小学生は「児童」、中学生、高校生は「生徒」、そして大学生は「学生」です。
では、分解してみましょう。学生とは「学ぶ生きもの」ですね。つまり学ばない学生は、大学生にあらずです。自らを「生徒」と呼んでしまう大学生や大人たちが、かなりの数にのぼるということは、日本の大学は学ぶ場所ではないという認識の現れでしょうか。キャンパスでは、大学1年生、2年生に替わって、高校4年生、5年生が増えてきています。
 知識社会に向かってますます加速する現代に、自ら学ぶ「学生」が求められています。その「学生」を一人でも多く生み出していくことが、我々の使命であり急務です。しかし、大学の教員や職員の中にも学生を「生徒」と呼ぶ人たちがいるのには驚きです。学生とは「学ぶ生きもの」であるという認識が、最初の一歩です。

 では「先生」はどうでしょう?分解してみますと、「先に生まれた」となるわけです。そりゃ先に生まれているのですから、後に生まれた人よりも多少の知識はあって当然です。先生とは、単に先に生まれた人というだけなのです。議員の「先生」、弁護士の「先生」、お医者さんの「先生」、大学の「先生」などと、先に生まれた方々はたくさんいますが、単に先に生まれているというだけであって、それは人間的に優れているということを意味しているわけではありません。むしろ先生と呼ばれる人達のほうが悪事を働いていることさえあります。
 「先生=偉い」では、決してありません。自らを偉いと錯覚し、ふんぞり返っている先生方や、「先生」と呼ばれないと機嫌を悪くする先生方は、自分は二流の人間であることを自ら身をもって表しているのです。本物、一流は、そのすごさを相手に感じさせないのです。本物の先生は、「稔るほど頭をたれる稲穂かな」なのです。

 さあ、どんどん分解してみましょう。「儲け」とは「信じる者」にやってきます。信じて最後までやり通した者に成果はついてきます。「躾(しつけ)」とは「身を美しく」ということ。躾は、幸せを得るための基本ですが、身を美しく見せることのできない人々が増え、自ら幸せを遠ざけています。躾がなっていないと、身がきたなくみえます。汚いものからは、幸運の女神は離れていきます。躾の出来ない親は、子を不幸にしています。まだまだいくらでもありますね。漢字を分解して、本質を見抜く力を養いましょう。(参考→http://d.hatena.ne.jp/Seattle/20050506