人と違うことは良いことだ ―多様性こそが成長のみなもと―

 日本人の特性として、他の人と同じように考えて同じように行動するという傾向がしばしば指摘されてきました。第二次世界大戦後の高度経済成長の時期には、この特性は優れた優位性を発揮してよく機能してきました。しかし成熟期を迎えた現在では、むしろ足かせとなっています。時代のキーワードは、「多様性」であり、異質なものとの出会いこそが「創造」につながることを認識し、画一性にとらわれることなく多様性を尊ぶ思考様式・行動様式を身につけていきましょう。

 私が大学院の修士課程で学んでいた時、同じ研究室にカナダからの留学生がいました。彼女に卒業後はどうするのかと聞いたところ、東京を出発してから、一年間ぐらいかけて、世界をぐるっと一周して、自分のふるさとのカルガリーまで帰るとの答え。とっても驚きました。日本人学生にとっては、修士課程を修了すると、博士課程への進学か就職という二つの選択肢しか考えられません。若い感性の豊かな時に世界を一周して見聞を広めることは、その後の人生にとって多くの糧を与えてくれることでしょう。日本人の画一的思考を超えた彼女の発想と行動力にとっても驚きました。

 沖縄をゼミの旅行で訪れ、琉球大学の学生と懇親会をした時のことです。「就職率はどのくらいですか」と尋ねたところ、3割ぐらいですと、事も無げに答えるのです。あまりの驚きに、「エッ、そんなに低いんじゃ、就職しない人はどうするの」と即座に聞き返しましたが、平然として「なんとかそれなりにやっています」という答え。東京では、就職率が70%くらいでも、さがった、さがったと大騒ぎです。かたや沖縄では3割でも、どってことないって感じ。うーむ、沖縄は外国だ、まったく価値観が違うと感心しました。
 夜のコンパも、まったく違います。学生たちは一度家に帰って、夜ご飯を食べてお風呂にはいってから三々五々集まってきます。そして本格的に始まるのは、夜の10時、11時ごろからだといいます。私たちの時は、本土から来た人たちだからということで、特別に時間を早めて、夜の8時から始めてもらいましたが、これでも東京では考えられないことです。同じ日本でも、こんなに多様だったのです。東京にいると、東京が日本だと思ってしまいがちです。人口からいっても東京には十分の一しか住んでいないのです。東京は、日本の一地方に過ぎないのです。

 海外研修旅行でケニアを訪れたときのことです。現地の手配をお願いした旅行会社のケニア人社長さんが、親切にも私たちに同行してくれてあちこちを訪れ、親しくなることが出来ました。そして、とても忘れられない話を聞きました。「私には妻が4人いて、2番目の奥さんは日本人です」というのです。そうだ地球上には、一夫多妻制というのがあるのだということを、教科書からの知識ではなく、実体験から知ることができました。彼はケニア人実業家として成功していて、ベンツにも乗っていました。種の保存という観点からすれば、彼の行動は理にかなっています。つまり強い人間が、その子孫を多く残していくことは、繁栄への道です。ここでもまったく違う価値観にぶつかり、本当に驚きました。

 日本国内には画一性に支配され、流行に流されて、同じような格好をしている若者が闊歩しています。他方、人と違う道を歩んでいる若者は、世界を舞台に活躍しています。「違う」ということは素晴らしいことです。「多様性」こそが、成長の源泉。みんなと同じように考えて、同じような格好をして、同じように行動する、そんな日本人をやめにして、世界に羽ばたきましょう。どうせ一度しかない人生なのだから、日本の中だけで過ごすなんてもったいない。広い世界を知らずに人生を終わるなんてもったいない。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ

 人は年齢を重ねると、それだけ多くの経験を積みます。そして、それらの経験から何がしかの教訓を得て、自分なりの判断基準を形成していきます。何か新しいことにぶつかった時には、意識するしないにかかわらず、過去の経験に照らし合わせて物事を判断するというのが一般的でしょう。「以前こうやって成功したから、今度もこうすればうまくいくに違いない」、「かつてこうやって失敗したから、今度はこうすれば成功するだろう」などと考えて行動します。また他の人の成功談や失敗談を聞いて、自分の行動を決めることも多々あります。これは一見、合理的であり、当たり前のように思えますが、実は必ずしも良い結果をもたらすとは限りません。
 経験から得られた教訓は、過去の限られた期間における、限られた状況の中でのみ成り立つことなのです。前提条件が異なれば、その教訓は必ずしも成り立つとはいえないのです。ですから、自分の経験から物事を判断している人は、その人の理解を超えるようなことや、判断基準を超えるようなことにぶつかった時には、どうしても否定的態度をとりがちになります。
 「私の経験からすると、これこれこうなんですよ」と、したり顔で話をしている人を見かけることもありますが、こういう類の話は要注意です。その時とは状況が変わってしまった今、はたして同じことが言えるのかどうか。特に変化の激しい今日では、過去の教訓が役立たなくなる速度も速いのです。過去の常識は、今日の非常識ともなります。経験にのみ学ぶ人は、自ら可能性を狭めているといえるでしょう。経験に学ばず、新しいことに挑戦することは大切なことです。
 では歴史に学ぶとはどういうことでしょうか。もちろん、重要な出来事のあった年号を丸暗記するなどということではありません。日本語表記されたおかしな外国の地名や人名を暗記することでもありません。歴史とは多くの人々が試行錯誤してきた長い時の流れであり、歴史に学ぶとは、その試行錯誤から得られた人類の叡智を学ぶことです。様々な状況においても成り立ってきた教訓を学ぶことです。
 本物だけが長い時間の淘汰を経て生き残り、今日に伝わっているのです。ですから古典を学ぶことは大切です。私たちの時間には限りがあります。その貴重な時間を、くだらない本の読書に浪費してはいられません。年間6万点以上(つまり毎日約160冊)出版されるという書物の大部分はジャンクブック(ジャンクフードからの造語で、内容がない本のことを菅原がこう呼んだ)で、これらに時間とお金をいくら費やしても成果は得られません。


 「賢者は学びたがるが、愚者は教えたがる。」